映画「けいおん!」

・映画の力―――というものについて言及するには経験が足りていない気がして、尻込みすることを余儀なくされるのだけれど、だとしても。「その感動は君が初心者だから覚えたものでしかない」と断定調で語られれば反駁する術など僕にはないのだが、だからと言って、劇場で観たあの情動の価値が減ずる訳ではない、はず。とにかく、画面と声と音楽とに没入する感覚に酔った、その体験だけは固有のもので、その価値だけは何にも/誰にも侵せないのだ。いや、前提だけども。
 
・観ていて死にたくなるほどに暖かくて優しい世界でした。でも、「甘い」世界ではないと思います。……この種の言及は概して言葉遊びにしかならず、また今この瞬間の記述もそのパターンからは脱せていないのですが、ここでは感覚に従って言葉を遣います(このブログが僕自身の為の備忘録であることを想起しましょう)。古手梨花の言葉を借りれば、サイコロを3回振れば3回とも6が出る世界、とでも言えばよいでしょうか。決して7以上の目が出ている訳ではなく、ありうる可能性の中から最善を選び出した末に位置するような世界(に見えました、と言っておかねばならないでしょうね)。
 「ある程度の瑕疵を与えないとリアルさが出ないだろう」という指摘には、創作を現実の位置にまで引き摺り下ろす輩は死ね、と殺意でもって応えるか、或いは世界仰天ニュースでも観て仰天してろよ、と嘆息をもって応えるかするだろうと思います(……この2命題の並置には論理的な瑕疵が存在しますが、それは話者=リアルを称揚する者が掲げる「リアル」と、僕の言う「現実」とが対応していない事に拠ります。完全に余談ですけど)。
 
田井中律さんがいちばん好きですね、と本編をロクに観てない者が言ってよいものやら……。デザインが好みというのは勿論あり、髪を下ろすと印象が変わってこれもまた好み、というのも勿論あり。でもやっぱり、立ち回りの細やかさにこそ惹かれたような気がする。からかいや揶揄までもが、相手を楽しませようという意図のもとに行われてるように観えた。優しくてかっこいい。
 
・画面の説得力がすごい、というのは素朴な感覚としてあった。ソファに埋まってるあずにゃんの、後頭部と背もたれとの間に蟠った髪の毛の存在感、とか。あずにゃんが落ちたゴミを拾うシーンで一旦屈んでから体幹を前傾させて手を伸ばしたその瞬間に変形する上履き上面のライン、とか。或いはムギちゃんの後ろ髪を巻き込んで巻かれたマフラーの立体感なんかも。そこに空間が存在するということ、その説得力を保証するための書き込みがすごい、と評したのは誰だったか。そこまで書きこまれた世界に、映画感という別世界への没入を促進する環境が合わされば、そりゃあ没入もする。
 
・あまり他人の批評を見てみようという気にはならない。元々そういうのは好きじゃないけど、これは多分、出来るかぎり他人の言説に侵されないよう、心奥でじっくり涵養すべきものなんじゃないかな。「あらゆる作品はそう扱われるべきなんだよ、知らなかった?」という指摘に対しては、全ては僕の怠慢によるものです、と土下座するしかないんですけど。共有幻想こそが感性を殺すのだ、と最近はよく思う。
 
・書くことが尽きないなあ。折に触れて小出しに書いていこうか。本編も観たいしね。