『劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』

 寝る前に散漫に書き残しておく。ほぼ自分用メモ。いずれ清書するかも。
 
まどマギ本編はおそらく「ありがちな魔法少女ものへのメタ」ではなく「『ありがちな魔法少女ものとして想像されはするが実際に存在はしないベタベタな魔法少女もの』へのメタ」という文字に起こすとややこしい位置にあって(実際には様々な用語・舞台装置を魔法少女ものに用いられる用語として読み替えたもので、メタとしては他ジャンルへのメタとして読まれるべきだろう)。
・劇場版の冒頭はそれを更に裏返すことですごい魔法少女っぽくなっているのだなー、という印象がある。当たり前なことですね。
・変身シーンですごい踊る。オープニングでもすごい踊る。あれが仮にほむほむの考える魔法少女像の具現だとすると(ここらへんは何とも断定しにくいんだけど)、マミさんよりも数段、夢見がちなセンスである。
・マミさんあんこちゃんと来てさやかちゃんはどんなダンスで変身するのかなーと思ったらブレイクダンスからの全力疾走で内心ウッヒョー。さやかちゃんの恋は走りだすことすら出来ずに終わってしまった訳です。代替として縋った魔法少女としての使命も残酷な真実に彩られていて、走り抜けるには過酷に過ぎた。そんなさやかちゃんがクラウチングスタート魔法少女の自分に向かって走るんですよ劇場版では。もう超エモい。
・ナイトメア戦は協力プレイでの戦闘から伝承童謡めいた止めのシーンまで全体的にポップでファンシー(語彙貧弱)に固められてるんだけど、変身シーンで各キャラかなり意味深だったり不穏だったりするカットが入ってた(割れる硝子とか人間の目とか)。その時はなんだろこれと思ってたけど、まあ、最後まで観ると色々示唆してたんだなーと。
・変身に限らず、前半の描写はまともな世界に混ぜ込まれた不穏さがいい感じに利いてる印象。
・ただ、見滝原自体がアニメ本編でもよくわからん都市だったので、街の描写に関してはどこから不穏な/異常な描写なのかの区別がつかなかったというのはあり。飛行船が大量に飛んでたりヨーロッパめいた運河で船に乗れたり。流石に赤い霧と林立する風車のあたりは明示的におかしかったけど、境目が。
・おかしな描写をぜんぶほむらちゃんの妄想或いは願望として読むことによってすごい残念な感じになる。基本的にはほむらちゃんの心象世界みたいなものだと思うので、新しく生えてきた設定はだいたいほむらちゃんの手によるものだと考えているのだけれど、踊ったりとか童謡で悪夢を昇華させたりとかの設定を無意識に採択しているのだとすると、まあ、かわいい。
・ほむマミ戦闘のマミさん超つえー。
・「強いマミさん」を存分に描いてるなーという感じはある。本編のマミさんが寄る辺のない使命を受け入れる為に「ベテラン魔法少女」というロールを積極的に演じていた(正義の魔法少女というロールを演じないと人生に意味が生まれない)のに比べて、劇場版のマミさんはそこら辺の心象を自ら解体、懐かしむ程度には変化を経てきている。そして油断して死んだ本編と謙遜しておいて超強い劇場版との対比である。
・完全にガン=カタな戦闘シーンだけど、まあ銃器使いがタイマン張ったらそりゃ早撃ちを競うか遮蔽物使って撃ちあうか射線を見切ってギリギリ躱すかって話にしかならなくて、ガン=カタと化すのも致し方なし。
・やり残しをやってるんだなー、というのはいろいろなところにあって(そりゃ新作劇場版だからね)、魔法少女全員の団結、仲睦まじい杏さや、あとは終盤の二人弓矢なんかもそうかな。本編に突っ込む尺が余ってたとも思えないし。
・ただ二人弓矢に関しては、ループの中であったかもしれない絵ではあるので、厳密には本編になかった要素とは言い切れない。初回はああやって戦ってたかもね。
・QBが喋ると一気に世界観がつまんなくなるなー、という本編にも感じたアレ。それっぽい物理用語で補強された世界観より魔法少女の視る夢の世界の方が強いので、理屈付けられた時点で世界そのものが縮減したような感覚を抱かされる。実際には一人の人間の内的世界から宇宙規模へと話が広がってる筈なんだけど、まあ、宇宙より少女の方が強いからね。
・QB氏が弓の雨にドカーンされるときに「わけがわからないよ!」って一斉に言うのすごいMAD動画感あって爆笑ものなんだけど(エルシャダイ感ある)、感情がないし個体差もない生物なので同じ場所で同じ攻撃を受けたら同じタイミングで同じことを言うよねという理に適った演出なのかなと一頻り楽しい感じになってから気付いた。でも笑えるだろアレ。
・ほむら氏って強度高いキャラに見えるけど実はたぶんそんなことなくて、よくも悪くも三つ編み眼鏡の頃からそう変わってないっぽい。大人びている、精神的に強い、というのはだいたい(元からあまりない)コミュニケーション能力を切り捨てて単独行動にパラメータ振ったくらいのアレで、ループキャラとしてはむしろ不自然に完璧じゃないくらい未熟な部分をそのまま残してる。
・マミさんを説得しようとする時の手慣れてなさとかその最たるもので、「これは魔女の仕業なの!」と段取り無しで叫ぶのでそりゃあマミさんもあなた大丈夫? って感じの反応を返すしかない。本編でも当初はミステリアスなキャラとしての演出に寄与してきた台詞が後から考えると単に交渉して人間動かすの大変苦手なだけだったねという例に事欠かないキャラなので、平常運転ではあろう。
・そこへ行くと、マジで言ってんだな? の一言で信用する佐倉杏子氏のすごいいい子っぷりに思わず笑みが漏れる(あのシーンのほむら氏すごいコミュニケーション能力高かったなーと観終わってから思ったんだけど、某氏の「当初の三つ編み眼鏡時代だとあれくらい説得できるのでは」という指摘に納得)。
・ラメーン奢ってもらう為に行くんだからな! というエクスキューズを設置することで相手の申し訳無さを低減すると共に何もなかった時の楽しみも用意しておく気遣いっぷりに普通に尊敬の念を抱いた。あんこちゃんすごい気持ちのいい人間だな……。
・終盤の世界改変シーンすごい旧劇のkomm,susser tod流れる場面っぽい(なんでもエヴァ認定マン)。
・ティロ列車砲フィナーレすげーかっこいい。核バズーカかよって爆破半径にクソワロを禁じ得ない。
・イヌカレー演出でないオクタヴィア氏、すごい味方ロボっぽい。かっこいい。
・オクタヴィアの使役は絶望の超克という感じですごいエモい。あの絶望を経て美樹さやかは走り続けてきたんだ、という物語を勝手に読み込みたくもなる。
・施設の問題がどの程度あるのかわかんないけど音響すごい高音刺さって死んだ。特にQBの長話は本当にやめてほしかったよね。

・雑な感想はまだまだ出てきそうなんだけど、とりあえず一番もにょった点をちょっと書いとく。ほむほむの話。
・さやか氏とほむほむの問答を経てから魔女化が判明するまでの間、ほむほむが結界内で演じられてきた穏やかな魔法少女としての生活「そのもの」には自分では特に価値を見出だしていなかったように見えて、それが少しこう、無惨だなーと。世界の謎を解いてこの世界を終わらせてしまうこと自体への躊躇はあるんだけど、それはさやかやマミといった他の魔法少女が楽しげに過ごしている空間を壊していいかという逡巡であって、自分のことはその輪の中に繰り入れて考えていないっぽく見える。ここに至ってまだ、暁美ほむらは局外者として振舞っている。(この時点の認識としては)既にループ者ではないのに、だ。
・「また自分だけの時間に逃げるの!?」というさやかちゃんの叱責が虚しく思い出される。時間停止って断絶の象徴としても使われてきたんだなー、と今更気付くこの遅さよ。
暁美ほむらというキャラが輪の中に入れた時―――周囲から見て、ではなく、本人の主観として入れた時―――その時初めて、まどか☆マギカという話は終わるのかなーとか、そんなことを思った。そうであってほしい、という願望に過ぎないけれど。鹿目まどかによる救済は彼女を歪めてしまった。そんなことを、思う。
・彼女のためにという祈りは、彼女のせいという呪いに容易に転化する。呪いを打ち払うのは魔法少女の祈りだ。そういう世界観だった筈、でしょう?
・という訳で続編ないとだいぶ萎えるのでお願いします。

・総じて「一人ぼっちになっちゃ駄目だよ、ほむらちゃん」に集約されるオチではあったな、と。皮肉が利いてるネ!(鼠顔で

未来福音

・まず、観る機会をくれた某氏に感謝を。たぶん切っ掛けがなければ観ていませんでした。
・全体の話。キャラデザ、というか顔の描き方が武内絵にかなり近づいてて、今までのデザイン(特に瞳の描写)が苦手だった身としてはかなり助かった。斜めの絵でかなり顔の輪郭―――特に頬〜顎のラインが崩れて見えるのも、武内絵を意識してのことなんだろうと思う。横顔はどこから持ってきたのかよくわからない輪郭になってたけど。
・最初のアレ。語り部の世界観に寄り添うことのできない状態で苦悩からの脱却の過程を見せられるのはだいぶつらい。強度の低いキャラクターには興味が持てないらしい? 人間的な悩みが美しく輝くような世界ではない、と捉えている? ここらへんはうまいこと言語化できる感触がないなあ。たまに入る鮮花さんの顔芸かわいいなーと思いながら何とか遣り過した感じ。あ、カメラに寄った大粒の雪の透過具合がすごく綺麗でした。
・瀬尾静音の話。劇場版幻視同盟、とか言ってるのは僕で全国5000人目くらいかなーと思う。数字は適当。なにせ大人びた幹也の佇まいが「遠野志貴」と被るったらない。
・アーネンエルベの看板が見えた瞬間にウッヒョヒョーイと興奮し、未来視の考察を重ねる会話が始まった瞬間には完全に幻視同盟やーとテンションを上げていたのだが、シーンが続くにつれ、脳が本当に「これは幻視同盟なのだ」と誤認していくのが解り、かなりドラッギーな感じに。シーンの半ばも過ぎ去った頃には、スクリーンに歌月十夜や幻視同盟を重ねている自分がいた。途中から本当に瀬尾晶ちゃんに見えてもうだめだ感極まる。
・今作で最も好きな部分ではあった(上記したような事情もあり、これが一番ってどうなんだよとは思うが)。当初はグッズのラインナップ眺めても全く何も買う気がなかったものの、このシーンを観終えた時には静音のキーホルダーは欲しいなと思え、意気揚々と物販を訪れてみたら普通に閉まってた。レイトショーってそういうこともあるんですネー。
・しかしこう、やっぱり幹也の語りって音声化すると異常に強度が高くて気持ち悪いというかなんというか。一作目の時点で既にそんな感じで、結局ここに至るまでに慣れることも印象が覆ることもなかったし、それは声優が悪いとか演技が悪いとかいった水準の話には還元できなさそうだ。テキストであること、が黒桐幹也の台詞においては何よりも重要だったのではないか。いやまあ多かれ少なかれそうであるのだけれど、幹也のそれは圧倒的に、くらいのニュアンスで。
・ああでも、「君、少し黙れ」は絶対違うと思う。演技の水準で。話が逸れた。
ニュートラルであることの恐ろしさ。メガテンの話ではないけれど(きのこがイメージしてた可能性はあると思う)。善性の塊は何よりも恐ろしく見える、とえらい人が言ってました。
・そういえば羽ピンの原型ってどこにもいないですね。いても馴染まないとは思うけど。
・倉密メルカの話。冒頭の爆破シーンで其は恒温の最高速とか思ったのは僕で全国5000人目くらいかなーと思う。数字は適当。
・全体としてはいまいち楽しめなかった、なあ……。子供や機械を説伏することにカタルシス感じられない問題。未来をどう解釈するか、という部分は割合興味深くて、むしろ占い婆さんが喋ってるシーンの方が式の喋ってるシーンより楽しかったり。ぶっちゃけた話、根源と衝動の話がスポイルされるなら、それはらっきょでなくていいのでは? という感覚がなきにしもあらず。
・未来視は未来の奴隷だった、という転倒にメルカ本人が気付くシーンの茫漠とした爽やかさはかなり好き、だけどらっきょに求めているものではないのでアレ。そこに集約させるならまた別の構造が必要になる気がするんだよなあ。DDDの映像化はまだですかー。
両儀未那の話。イカちゃんの声だと気付けなかったので早苗さんアイコンを使う資格が消滅した。最近やっと井口裕香の声を覚えたマンだよ。
・ひたすらお嬢様キャラが活躍できない中、すごい主役オーラを醸し出す両儀未那氏。礼儀正しくて勝ち気で賢しいロリに使役されたいという願望を持つ我々としてもな。お偉いさんのとこのお嬢様に扱き使われつつ気に入られる末端のチンピラ、って構図はベタに気持ちいいのでプリズマ☆イリヤの代わりにメルカさん主役両儀未那さんヒロインでポル産アニメやればよかったんじゃねとの思い強まる。毎度毎度益体もない事件を解決していく金太郎飴的探偵アニメ。
・はい、賢いロリと無気力青年の組み合わせが好きなだけです。……といった具合に、自分の好みの回路に通して何とかなってしまう辺りになんか変なものを感じないでもない。そういうのが拒否られる方が自然だと思っていたので。
 
・映画館補正もあり、要所要所でウオォォォォアァァァァ-ッとなる場面があったのでよかった、けど全体を貫くテーマに関しては未来視の考察くらいしか好みの部分なかったなーと。アクションを要さない物語なのだから、その分空の境界としての強み―――というか、テキストでしか描写できない戦闘という弱みを見せずにいられるというアドバンテージがあった筈なのでは、と思うんだけど、割かし益体もないサスペンスで時間取られていたような印象が強く。もっともっと世界観の話をしてくれてもよかった、と思う。
・アーネンエルベでのお話くらいのクオリティで歌月の志貴と有彦がラーメン食べながら死生観の話するシーン映像化してくれたら割と現世への未練が減るので安らかに死ねそう。

おおかみこどもの雨と雪

・DVD版を視聴。共に視聴した友人との会話もあり、どこまで自分一人で考えたことなのかは曖昧。
細田守作品がいくつあるのかちょっと知らないんだけど、観た中ではぼくらのウォーゲームが最も好きで、次に今作、そして時かけサマーウォーズと続く感じ。そこまで好きな作品ではない、と思う。何というか、きっと僕のために作られた作品ではない、という感触が一番強い。
・しかし家族向けかというとそれもまた。中高生の子供を連れた親向け、というのが作品から逆算した対象……本当に? 実際にはどのあたりの層に響いたんだろうか。
・以下細かい感想。好き嫌い以上の批判をする余地が僕には見えない、かな。田舎描写がキモいと言う人は言うのだろうけれどまあファンタジーとしての田舎幻想を楽しむ回路は普通に持ってるし、広い日本、べつに全ての田舎が田舎の陰湿さに塗れている訳でもあるまい。要は気にしない方が楽しめるし気にせずいられる領域なので個人的には触れない要素というだけのアレ。
・気になったのは雨と雪とが喧嘩するシーン。人として生きたい雪と狼として生きたい雨とが対立するあの場面で雪が狼の姿をとってしまったこと、そしてその事実を省みるシーンが挿入されなかったこと、が引っ掛かるといえばいえる。ただ、どちらの描写にせよ、その理由を内在的に説明したり、描かれなかったシーンでそのような(僕が観たいと/説明不足だと思った通りの)変化が生じたのだろうと納得するために必要な描写は本編中に充分に存在していたように思うので、結局は好みの問題に帰着するのかな、という気はする。
・たとえば。僕の好みだけで言えばあそこは飽くまでも人としての姿を保つ雪が雨にボロボロにされる場面になるのだろうけれど、あの喧嘩の終わりに雪が泣いていたことは、再度狼になってしまったこと―――雨にも伝えた彼女の決意、直近に覚えた露見の痛み、かつて交わした花との約束、への裏切り―――を悔いて/恥じてのものだと解される。そう考えた時、そのことを振り返るシーンを後に挿入する必要は(少なくとも説明の必要性という視点に於いては)ない。
・気になったシーンは他にもあるものの、どのシーンも上記したような感じで、下手に批判するとそのまま作品に殴り返されるような感触がある。必要なものは大体、作品の中で既に描かれている。
・下手に尖らせないことで掴む場所を作らない、という印象。つまり刺し殺してくれよ! さあ来いよ! オラッオラッ! という話なんだけど。ここまで隙のないものが作れるのか、という驚きが先に来る感じ。そして驚きの半分は残念に思う気持ちで出来ている。
・あとまあ、悪者を作らない作劇だよなーと。作中一番敵っぽかった夜泣きを黙らせろよと怒鳴りこんでくる住人にだって、寄り添う余地がない訳ではなかった(そんなこと言ってたら育児なんてできないし、と考えて控えるのがまあ普通の人間の倫理じゃないのかなーとは思うが、それでも彼が異常だとまでは言えない)。児童相談所の所員だって精一杯の仕事をしているし、保健所? の所員があそこで遺体を花に引き渡しなどする訳もない。描写の上では花に過酷な世界に見える。でもそれは神の視点から俯瞰した場合の世界観であり、実際には皆それぞれに生きているだけだ。特別な悪意が介在した訳ではない。
・また、劇的な展開を敢えて避けるような作劇でもあった。かわいそうな主人公が外圧に負けず育児に奮闘する話にもできたろうし、雪の秘密を子供が共有して子供の絆が云々という方向に持っていくこともまあできたろう。悲劇も英雄譚もいくらでも突っ込む余地のある展開だった。カタルシスを得るためのフックはもっと大量に配置できたはずだ。だからこそ、それをしなかった、というところに、とりあえずは目を向けたい。
・世界はそれなりに優しく、それなりに残酷だ。優しいものだとも残酷なものだとも一概に言えない、その曖昧さこそが酷薄なのだ、という世界観。排外的な田舎の風潮は内側に入り込めば暖かくもあり、子供の無邪気さは少し変わった子供をも問題なく仲間に入れてくれる一方で、繊細な葛藤に敢えて触れずに居てくれるような気遣いとは無縁だ。そういった描写の乾いた感じ、妙なリアルさに何を思うかが、評価をかなり左右するのではないだろうか……と、そんな気がする。
・あとアレ、いま観るとあまりにジブリ的なるもの―――またトトロが観たいと主張するおとーさんおかーさんが求めていたであろうもの、に満ちていて、タイミング的に駿の引退と関連付けてすげー適当なこと書きたくなってくるので本当によくない。田舎の家のトトロっぽさ、森林の中を往く時のもののけ姫っぽさを考えると、本作を観終わった後にアシタカのラストシーンの台詞とか呟きたくなってくるのも仕方ないことではあろう。
 
・追記。割と声優は気になってしまった、かなあ。
・声優でない人の起用そのものに関する制作側の話には一切興味がないので好みの話だけすると、そういうキャストはピンポイントで使ってこそ映えるのでは、という感じ。雪の朴訥とした感じ、草平のぶっきらぼうながらも優しい感じはそれぞれ非常に好きなんだけど、二人の会話シーンは何というかこう、ああ、他に上手な声優がいたからこそ彼らの演技は生きたんだな、という所感を覚えさせられる感じだった。最もよい場面で会話する二人だからこそ、どちらか一人は、と思わざるを得ない。

『ストライクウィッチーズ劇場版』

・そもそも何で芳佳ちゃんをまた飛ばすん? というアレ。感想の9割くらいはこれ。思ってた以上に二期最終話のオチが気に入ってたんだなあ、と遅れながら自覚される感じの。
・在るべき軍人の姿を追い求める新兵と、理屈と規範では到底捉えきれない英雄……という構図ではあるんだけど、どうも道筋が一直線に繋がってない印象が拭えない感じ。いや、ひたすら教練通りに動いた結果として堕ちる服部さんと、アドリブで全力を尽くした結果として飛べないながらもネウロイを退けた芳佳ちゃん、という対比は綺麗に決まっているんだけど、ぶっちゃけ服部さんって必要なキャラだったの? という印象が非常に強い。
・服部さんの思考の変遷とか語られなかったせい、ではあるのかな。芳佳ちゃん負傷前に服部さんがまともに会話してたのってペリーヌさんだけで、あれだって夕食の負い目と立場の違いから萎縮しきった上でのそれで、その後はひたすら芳佳ちゃんとは没交渉。結局、服部静夏ってキャラが何を考えていたか、彼女はどんなキャラクタだったのか、ということを知る機会が殆どなかった。ペリーヌさんとの会話で生い立ちと行動原理は判ったけれど、それは筋立てから推察されるもので、それ以上のものではない。
・芳佳ちゃんの復活劇を描くためには芳佳ちゃんが護るべき対象がいればいいのであって、極論すればそれは逃げ遅れた街の人ですら構わない。だからこそ、憧憬が先行し、後に失望と嫉妬が入り混じった感慨を彼女に抱く服部静夏軍曹というキャラクタを導入したからには、そこでは二期で描かれた空を飛ぶこと≒他者を護ることの継承が形を変えて繰り返されるはず―――と脳味噌が勝手に期待していた、というのはある。いや実際ラストでもっさんと会話をしていて、服部さんはストライクウィッチーズのようなウィッチを目指すんだろうな、と頭では理解したんだけど、どうにもしっくり来ない。筋書きレベルではちゃんとしてるんだけど。
・赤城での消火にせよ土砂崩れの街での治療にせよ土管型ネウロイとの接敵にせよ、撤退を提案する服部さんと振り切る芳佳ちゃんってモチーフは繰り返されていて、あれが芳佳ちゃん復活で途切れたような印象が強いのかな、とか。脳内シミュレーションした感じ、たとえばあそこで魔力は戻ったけど傷はそのままで、それでも最低限の治療だけして飛んでしまう宮藤芳佳と、その戦闘を支援する坂本美緒、彼女らを制止し切れず見上げる服部静夏、という構図であれば、たぶん、違和感の一端は解消されるはず。
・魔力復活よりもむしろ傷全快にこそもにょってたのかな、と後から気付く感じの。
・芳佳ちゃんって「飛ぶな」って言われながら飛ぶ姿がとにかく印象に残ってて、だからみんなの待つ空へ歓迎されるってのはすごい齟齬った。状況や上官が許さない場でも、護るべきもののために飛ぶということ。規範を旨とする服部さんとの関わりって意味でも、そうしておくのが自然だったのでは、って気はする。
・しがらみを振り切った自由の象徴としての空、というのはそれなりに描かれてきたことだと思うので。
・いつか、届く、あの空へ。という言い回しが頭をよぎったといいます。

・以下よかったところ。
・序盤のシャッキーニ/赤ズボン隊の共同オペレーションの素晴らしみ。街並みを縫うような作画は映画ならではの作画リソースぶっこみパワー感があって大層よかったという。
・ハイデマリーさんの戦闘の美しさ。一期6話のリフレインではあろう。あそこでネウロイが宙返りしてたので今回のネウロイは今までのウィッチの戦闘を全て模倣する感なのかな―とか思ったという。ライン川を潜って越えてたのはハンナ回のアレだろうし、とか。つまりネウロイが烈風斬をだな。
・芳佳ちゃんとリーネちゃんの絡みが部外者の目を前提にするとすごい末期的で超えろいやらしいのでもっとやればいいもっともっとだァという感じにならざるをえない。
・ペリーヌさんが綺麗ですごいきれいだと思った。芳佳ちゃん―もっさんラインがどうしても付きまとうので嫉妬キャラのイメージが付きがちだったのかなーと。
・地中から射出されるネウロイの外連味。大層シンプルで美しい処理。レーダーに引っかからない→自然発生やな……間違いない……とか考えていた自分がアホかと思った。
・生身の芳佳ちゃんが機関銃を重たそうに持ち上げる表情の必死さ。魔力がないということの意味を残酷なまでに映像で伝えてくれた。

『中二病でも恋がしたい! 2』/虎虎

中二病カップルなので中二病な会話をする訳だけど、恥ずかしい応酬の最中にラヴが溜まってくると中二的な返しが出てこなくて素が覗いちゃう、という流れが実にエモい。どうやって感情の高揚を文章で表現するかと考えた時、つまり「好き」をどうやって書こうかと考えた時、それまで演じていたロールが保てなくなる描写というのは非常に強いなーと思う。思考リソースが足りなくなる、いっぱいいっぱいになる、という状態の説明としては非常にわかりやすくて、しかもかわいい(重要)ので。
・楽しい会話。相手の発言を自分の論理(世界観)で再解釈、変化させまた相手に投げる、というキャッチボール。何しろ「自分は本来何者であるか」すらをも任意のタイミングで再定義可能な会話なのだから面白くないはずがない、といった感じ。何者かになりきることの快楽、みたいな話をしてたのは誰だったっけ。キャラクターとして会話することの楽しさ。
中二病であることは悪ではなく、中二病として周囲に迷惑をかけることが悪なのであり、だから親しい相手と閉じたごっこ遊びに興じる限りは問題ないのだ、という認識が森夏さんの口から語られたのは善いのでは。こういうところを外さないので読んでて心が濁らない、というのはあるなー。だからこその主人公たちへの祝福であり、当たりが柔らかくなった理由もまたそこにある。
黒歴史的なつらみも周囲との折衝に際して発生するものであり、そういう意味でも世界は優しい。善いかどうかは何ともいえないけど、敢えてつらみを読み込む根拠が見えない(蛸壺屋になりたいなら別だけど)ので、しない。摩擦係数ゼロだったら物体は彼方まで滑り続けると、そう信じたいじゃん? みたいな。
・「なんとかかんとか・連撃」みたいな名付けがテイルズっぽいなーと思ってたらその応酬の最後にエターナル・インフィニティとか言い出して噴いた。俺式ファイナルヘヴンといいカイル君といい、いちいち世代が被る。
・脱線。ファイナリティ・デッドエンドの最中に極光術発動できず死んだ人は多かろうと思う。僕もだ(話の流れ的に自動発動かと思うのが当然では……?)。
・七宮さんの強度が思ったより低くてやや驚くなど。他人と繋がること、恋人になること、を自らのロールに組み込めないことがその要因だったのかなーと朧気に。孤高であらねばならないキャラクタは、自ら契約を申し出ることができない。かなり適当言ってる。注意。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(advanced)

 一晩明けて他の人の感想を参照したりした。なるほどにゃー、から、くそがー、まで色々と。
 普段あんまり人の感想って見ない(エロゲにせよアニメにせよ本にせよ)のだが、エヴァだと見てしまうあたり、やはり勝てないというか何というか……。
 
ミサトさんの頑なさは立場によるもの、アスカの苛烈さ(言葉ほど実際には苛烈には感じられない訳だけれど)は期待と失望によるもの、というのはその通りだと納得した上で、しかし尚も「だが、シンジくんは救えない! お前たちにはな!」などとぶっ放したくなる感じ。
・彼女らの行動にはシンジくんへの気遣いや期待が読み込める、のだが、しかしそれは外部から読み込んだ結果でしかなくて、肝心のシンジくんの主観から見ると全然やさしくない、というところにとりあえず注目すべきかなーと思う。彼女らは立場的に、道義的に、倫理的に、優しいし正しい。だけれども、彼の心が欲しているのはそういった優しさではなくて、置いてけぼりで護られたり正しい言葉で打擲されたりすることではなく、手をとって導いてくれることをこそ、彼は望んでいたのではなかったか。
・ということを思ったのだけれど、それはそれとして描写からミサトさんやアスカの優しさを客観的に読める人はすごいなあと思った。もし初見で全部読み切っていたなら平伏するしかないし、自分が複数回観たところで同じ認識に辿り着けるかは相当怪しいものだな、とも思う。細かな描写を読み落としながら一方で与太をぶっぱ、というのは余りにも邪悪なので(自戒)。
・認識が今もって揺らいでいるのだが、再度観に行くお金がない(もやし生活)。来月になったらもう一回、もう一回くらいは観ておかないと……。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』

 まともな評論はそのうち出尽くすだろうので、まともじゃないものを書く。
 ……自分でもびっくりするほどに内容がない。うーむ。
 
・「君たちに碇シンジを救うことはできないと、ようやく判った(画面の向こうへ微笑みながら)」
・もう逆行スパシンが全員ブチ殺して断罪する展開でいいと思う。
・話を転がす為だけにコミュニケーションを断つような処理を採用するとキャラが途端にアホに見える問題。喜劇化。
碇ユイ綾波ユイに変わっていた件について。エヴァの女性キャラの苗字は基本的に母艦の名前、男性キャラの苗字は戦艦や駆逐艦の名前で統一されている。その中でも船の部位の名を持つ碇や加持(舵)や六分儀やキール(竜骨)、女性でありながら駆逐艦の名を持つ綾波などは、特殊な名付けの為されたキャラクタであると言える。ここでたとえば蒼龍(空母)から式波(駆逐艦)へと変遷したアスカ、巻波(駆逐艦)の名を持つマリといったキャラクタも同時に考慮すると、碇ユイ綾波ユイとなったことには、かなりの読み込みの余地があるように思える。ベタな解釈として「綾波は母性を宿し得ないので母艦ではなく駆逐艦」というものがあったが、そう考えると……?
エヴァらしいものを作ろうとして致命的にエヴァじゃなくなってる、という印象。ないしは僕の偏向した読み込み。
 
・―――などと書いたところで「Qって旧じゃね? Q→序→破じゃね? 或いはQuestionのQじゃね?」との説を見てギョワーとなった。その発想はなかった。
・そう考えるとカヲル君の「今度は助ける」が違う意味を持ち始めるし、どう考えても頭おかしいヴィレの人々のシンジ君への無視にも説明がつくし(破でシンジ君の後押しをしたのは葛城三佐だったが、Qで詰問された件は果たして本当にそれだったのか?)、かなり魅力的な解釈に見えるんだよなあ……。
・縁を大切にした世界=破、という解釈も……マジで? 何か出来過ぎてて逆にフェイクのような。
・感慨の保存がここの役割なので、的外れであってもとりあえず現状考えた通りのことを書いておく。