『魔法少女リリカルなのは The Movie 2nd A's』

・もう随分と時間が経ってしまったので、記憶違いなんかも混じっているだろうけれど。とりあえず後々のために。あと、もしかすると何処かの誰かの役に立つかもしれないとかなんとか。
・序盤の百合空間に関して。そのまんま観ても眼福眼福といった感じではあるのだけれど、劇場版が管理局のPV用映像、つまり作中作として作られたってことを意識すると更に味わい深い感じになるよね、という。なのはさんとフェイトそんの公開イチャイチャですよ。けしからん話です。
・全体的に尺への意識が見えないかなー、という感じはした。元々が13話の内のほとんどを使って八神家サイドに感情移入させる作りだったところを2時間ちょいに圧縮した、というフォーマットの都合はもちろんあるのだけれど、それを差し引いてもかなり不思議な時間配分になってる。全体から百合シーンとアイン戦に割く時間を引いて、残りで必要なイベントを駆け足に消化した感じ……かなあ。そんな印象を受けた。
ヴィータちゃんの絶望がprprできないよー、という嘆き。あとなのはちゃんの「名前を呼んで」が上手いこと決まってないなー、という残念さ。どちらも戦闘の積み重ねの不足に拠るところが大きい、のかなあ。どうしてもリアル時間を多くは取れないし、戦闘の回数自体が削減されるのは仕方ないんだけど、うーん。
・テレビ版で最高にヴィータちゃんが可愛かったシーンといえば力尽きて砂丘に顔面から崩れ落ちるあの一瞬であっただろうことは最早言うまでもないことではありますが、該当シーンが割と演出過剰に見えてしまった、のが個人的には少し残念だったかなあ。茫漠とした無力感、雲を掴むような実感の薄さ、それらに裏打ちされた焦燥、といった要素が淡々とした苦境の描写によって実感された部分というのはかなり大きいと思っているので。
・消えた人々について。世界はこんなはずじゃなかった事ばっかりだ、とプレシアに向かって吼えたクロノ君の在り方、あれはやっぱりグレアム提督への態度をもって貫徹されるものだったと思う。デュランダルはやっぱり、提督から彼へと受け継がれて然るべきだった、と思う。
・消えた彼らの代わりに汚れ役を引き受けた、ように見えるアイン。個人的には劇場版で最も気に入らない部分。A'sは―――無印もStSもそうだけれど―――誰に責を問うこともできない物語だったはず。悪人がいるとすれば夜天を改造した何代目かの主で、咎められるべき相手は既にいないというのに、罪が生んだ悲劇だけは連鎖していく。そのような、こんなはずじゃなかった世界で、彼女は誰を恨むでもなく、主の安寧を祈って世界を闇に沈めようとする。……あのどうしようもない諦念、誰に恨み言をぶつけるでもない在り方を好ましいと思った後で劇場版を観ると、さすがに強度が下がったように見えてしまうというか……グレアム陣営の存在によって完成していた擦れ違いのネットワークが欠けたことの歪み、その穴埋めとして引っ張られたような印象がどうにも拭えず、最終決戦で萎えるというつらい感じに。
・変に読み込んで感慨を乗せすぎただけで、他の人はそんなこと思ってない、という可能性は普通にあり。
・そういえば視点の置き場が定まらないなーというのが印象としてあったなあ。構造上は八神家寄りになって観る物語になってるはずで、テレビ版は実際そう作られていた(「悪魔め!」)はずなのだけれど、劇場版は割と両陣営のどっちも均等に映してたような感覚があって。
・最後に。なのはちゃんが割と普通に人間っぽくてマジかよという感じでした。特に「悪魔でもいいよ」に続く台詞の改変。