『中二病でも恋がしたい!』/虎虎

 
 一読した直後なので、とりあえず散漫に。

中二病の女の子を脱中二病した男の子が理解し導く話だったらやだなーと思っていたのだが、むしろ男の子が女の子に振り回される話ですごい癒されたという。
中二病を理解してくれる→好きになる、ではないところがよい。それは切っ掛けにすぎなくて、想いを左右するのは後に積み重ねていった時間の方。まっとうに恋してるんだよなあ。爆発したい。
現代日本を舞台に、中二病を題材にとることで、直截なパロディから痛々しさを取り除くことに成功している……ように感じた(個人的にはかなり直感に反した処理というか、逆説的に、などと枕詞を付けて記述したくなる事項なんだけど、どうなんだろう)。キャラクタが中二病である以上、直球のパロディはそのキャラクタの性質から考えても充分にありうる行動であり、だから上滑りしない―――世界から剥離したような印象を与えることがない、といった仕組みなのかな。キャラクタの性質を鑑みて(たとえば衝動や気まぐれをも考慮したとして)内在的に説明できない動きは、その動きの根拠として外在する影響源を想像させ、それが4次元の壁を超えるような……たとえば作者に行き着くようなものだった場合、そこで世界の強度は下がる、はず。で、そういった事態を構造的に防げる本作の世界は非常に強い。おそらく。
・元ネタリストとか誰か作ってるとは思うんだけど、とりあえず闇の炎云々はTOD2のジューダス、金色の魅了の魔眼はアルクェイド・ブリュンスタッド、といった辺りが印象的だったかなー。使われたネタの時代分布で作者の趣味を逆算、とか面白いかも新米。レイコでコナンってのは割と新しいネタだったはず。レゲー関連と思しきネタはほとんど拾えなかったとかなんとか。
中二病への眼差しが、とても優しい(そして正しい)。大方の者にとって後に枕に頭突っ込んでじたばたしたくなるような黒歴史と化す振る舞いであっても、それを悪と断ずることはできないし、楽しんだ時間の価値は、たとえ後に死にたくなったとしても消え失せることはない。作中で一貫して中二病を敵として振る舞っていた森夏でさえ、その言い分は「他の人の迷惑になるから」であって、決して中二病そのものの幼稚さだとかいった話には踏み込んでいなかった。その辺り、かなり自覚的に作ってるのかなあと思う(「現実の人間」の視線を召喚することなしに中二病そのものを悪と断ずることは難しいように思うし、その処理はクソ以下だと思う、とは書いておく)。
・六花ちゃんのそれは手段としての中二病であり、逃避の意味合いを持つものではあるのだけど、そこからの回復をハッピーエンドとして志向しない、というのは興味深い点で。そもそも人格として根付いちゃってる感もあるし。本当の自分、という概念を持ち出さない正しさ。
・ラスト10数ページくらいで急に(文体と速度の面で)色々と揺れたような感触。いろいろ邪推はできなくもないけれど、何とも言えぬ。
・AURAの邪気眼は全体として強さをインスタントにエンチャントする為のものという位置づけだったけれど、六花ちゃんのそれはもっと根源的なもののように感じて。なんだろう、ままごとの延長? それも違うかなあ。
・AURAに関しては、おたく☆まっしぐら、影山瑛ルート終盤の叫びとか参照すると面白いかと思う。世界への怨嗟と失望と、期待。
・散漫と宣言したからには散漫でも許されよう。